読書日記(6/4-6/21)

6/4

澤村伊智の『邪教の子』を読む。「カルト信者の母親から虐待を受けている子どもを助ける」という、わかりやすい上に刺激的で美しい「物語」。少なくとも初めの段階ではその「物語」をほぼ疑わず、むしろ喜んで飲み込んでしまうような読者の露悪的な部分をまざまざと暴いているように感じた。

 

6/9

『不思議の国の少女たち』の続編、『トランクの中に行った双子』(ショーニン・マグワイア)。時系列としては前作より前であり、前作にも登場していたジャックとジルという双子の姉妹が、赤い月と荒野の異世界で冒険をすることになる。本シリーズの「異世界」は、現実世界で抑圧されていた子どもたちが本当の自分を解放できる場所という側面を持っている。今回のジャックとジルは、自分たちの意思を無視された上で両親からそれぞれ「かわいい方」「おてんばな方」という役割を押し付けられていた。役割に倦んだ二人はトランクを通じて、吸血鬼が支配する封建的な領土に行き着く。ジャックは人間の博士の元で、ジルは吸血鬼のご主人の元でそれぞれ初めて自分の欲望や本当に望むものを身につけていくことになる。こういう物語を読む層はどうしてもジャック(親から「かわいくておとなしい方」という役割を担わされていたが、異世界では博士の元で科学の知識を身につけて自立していく)に感情移入して肩入れしがちで、どちらかというとジルを疎ましく思う気がする。この世界の女の子や若い女性に向けられる規範と「かわいい方」役割の相性はよく、規範に合う好みを持っている場合摩擦が起きにくい。「かわいい方」という役割を心地よく思っている人(特に女の子)は物語に没入することで摩擦を解消したり逃げたりする必要がないのだ。しかし、「かわいい方」に適応するしないが問題なのではなく、そもそも女の子を「かわいい方」と「おてんばな方」に分断することが問題である。この物語でいうと両親という分断を引き起こした者を透明化してジャックとジルの憎愛とその結末を語ることはできない、というか不公正に思える。

 

6/16

読書会のために『精霊の守り人』(上橋菜穂子)を再読した。守り人シリーズは何回か読み直しているはずなのに、なぜか毎回「こういう話だったんだ」と新鮮に読むことになる。小さな頃はチャグムやバルサが「善い方」、帝や星読博士、〈狩人〉が「悪い方」という単純な二項対立に落とし込んで読んでいた気がするのだが、今読むと〈狩人〉ですらさまざまな事情やしがらみの中で動いていて、その人間くささがおもしろかった。あと、やっぱりご飯の描写がとてもおいしそう。作中に登場するご飯のレシピは『バルサの食卓』という本にまとめられているらしいのでいつか作ってみたい。

 

6/20

アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』。個人的に有名すぎて逆に食指が動いていなかったシリーズの中の一冊だったのだが、今回やっと読んだ。10人それぞれのキャラクターや殺人が起こるごとに微妙に変化していく信頼関係がおもしろかった。犯人としては罪の軽い順に殺していったらしいが、そうするとあの人がラストなのは変じゃない?罪の軽重を比べるべきではないかもしれないが、ラストに死んだ人の属性によって罪の残酷さが大幅に重く見積もられた気もする。

 

6/21

途中まで読んで置いていた本をいくつか読み切った。

恩田陸の『Q&A』。最後まで明白な答えを提示せず、それぞれのキャラの解釈ややり取りによって不穏さがどんどん膨らんでいく感じがとても恩田陸っぽい。誰かが書いていたのだが、作家には「幸福な上澄み」というべき作品がある。その人が詳細にどのような文脈で言っていたのかは忘れてしまったのだが、私は「幸福な上澄み」を、その作家の「幸福な」エッセンスが凝縮されて万人に響くところのある物語になった作品だと捉えている。例えば恩田陸でいうと『夜のピクニック』、小川洋子でいうと『博士の愛した数式』だ。『Q&A』はまったくそのような作品ではないが、すごくおもしろい。私はむしろこういう話の方が好きだ。

角田光代の『愛がなんだ』。恋愛ものとして読むと主人公の挙動や独白にうんざりしてくる。しかし、実際には恋愛というよりどこからくるのかわからないほどの強い執着について書いていることがわかってくる。執着ものとして読むとむしろ好きな作品である。原作より先に映画を見たことがあるのだが、映画のラストのセリフは特に言いようのない執着を表していてよかった。

マモちゃんの恋人ならばよかった、母親ならばよかった、きょうだいならばよかった。もしくは、三角関係ならばよかった、いつか終わる片恋ならばよかった、いっそストーカーと分類されればよかった。幾度も私はそう思ったけれど、私はそのどれでもなくどれにもなり得ず、そうして、私とマモちゃんの関係は言葉にならない。私はただ、マモちゃんの平穏を祈りながら、しかしずっとそばにはりついていたいのだ。(中略)私を捉えて離さないものは、たぶん恋ではない。きっと愛でもないのだろう。私の抱えている執着の正体が、いったいなんなのかわからない。けれどそんなことは、もうとっくにどうでもよくなっている。(角川文庫『愛がなんだ』, p.211)

村田沙耶香の『丸の内魔法少女ラクリーナ』。村田沙耶香の作品は、透明化されていることにも気づかないくらい限りなく透明化されている社会規範を「この世界って、今はこういうことになっていますよね」としつこいくらい丁寧に抉り出してくる。世界は「こういうこと」になっていて、「こういうことになっている」という幻想をみんなで共有することによって成り立っている。「成り立っている」ということになっている。

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最近読む本のジャンルや傾向が固定されつつあります。自分で選ばないような本も読みたいなーと思うので、もしよければおすすめの本を教えてください。時間はかかるかもしれませんが読んで読書日記に書きます。

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