読書日記(12/26-1/8)

12/26

荻原規子の『樹上のゆりかご』。なにかと男子生徒がデフォルトになっていて、「女子には危険だから」という聞こえのいい理由で女子生徒が伝統的な行事から排除される環境。多数派である男子生徒たちのカルチャーになじめない者が感じる、そこはかとない居心地の悪さ。現在男子学生の比率が高い場所に身を置いている者として、身に覚えがある。明白な差別とまでは言えないけど(もちろんジェンダー比率の偏り自体は社会の性差別を反映したものだ)、なんとなく自分は心の底からは歓迎されていない・ここは私の場所ではないという気分になることがあるのだ。

少し前の読書日記にも書いたが、『樹上のゆりかご』も「世界を破壊しようとした女が結局主人公(的なもの)に放逐される物語」の一つなのかもしれない。歴代の(男子)生徒たちがつちかってきて今も学校を支配するカルチャー・伝統に対してサロメの論理で対抗しようとした有理は立派だった。最終的に破れて学校を去ることになったが、彼女の行為はたしかに既存の規範を揺るがした。一方で、規範になじめなかった者・反抗的な者は結局「異常者」として追放されてしまうのかと少し悲しくもあった。

あと、随所に出てくる「シンドバッドの船乗り」の話からして前作があるっぽいな…?と思っていたら、案の定主人公である上田ひろみが中学生だったときのファンタジー作品があるみたいだ。読んでみよう。

12/30

年末年始なので、これを機に積ん読を消化している。今日は『洗脳の楽園』(米本和広)の大部分と『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』(森山至貴・能町みね子)を少し読んだ。前者はヤマギシ会の「特講」という合宿への潜入レポが中心になっているノンフィクションである。ヤマギシ会は特講や村(ヤマギシズム実顕地)を拡大することで楽園を築こうとしている。しかし、作中でも指摘されているように、結局この「ユートピア」は子どもや女性など相対的に弱い立場にいる人々が犠牲になることで成り立っていたのではないだろうか?シスへテロの成人男性にとってはユートピアかもしれないけど、それ以外の属性の人にとってもユートピアだったのかは大いに疑問が残る。わかりやすいのは村人たちの結婚だ。村では「調正機関」という役所のような組織によって結婚する相手が半強制的に決められるのだが、そこでは若年女性と中年男性の結婚が「調正」されやすいようだ(「若い女性の方が健康な子どもを産む」という優生思想に基づく)。ユートピアという現実離れした理想の実現過程で摩擦が起こることは想像に難くないが、そもそもそのユートピア像もゆがんでいるのだ。

12/31

『樹上のゆりかご』の前日譚である『これは王国のかぎ』(荻原規子)を読んだ。性別すら判然とせず、軽々と空を飛んだり透明になったり、思い描いたものを目の前に取り出したりできる魔神族(ジン)。なんでもできるけど物語の当事者にはなれない魔神族と現実世界での自分を対比させることで「物語に逃避するだけじゃなく、現実世界でも地に足着けて当事者意識を持ってなんとかやっていけたらいいよね」というメッセージをはっきりさせている側面があると思うのだが、正直魔神族にはなりたいよな。好きなものをいつでも取り出せたら便利だし。

1/3

カクヨムで連載されていた『近畿地方のある場所について』(背筋)の単行本を書店で見つける。書籍という形で読むのもおもしろかったけど、作中に掲示板のまとめ記事などがあるのでネットで読むと一段と没入感がありそう。雑誌記事やインタビューの書き起こしといった短く断片的な情報群を読むうちにだんだん怪異の輪郭が定まっていき、具体的な手触りが浮かんでくる。怖いけど、怪異の全容がちらついて気になるのでつい読み進めてしまった。オチは映画「呪詛」を思い出した。理性的だと思っていた語り手がすでに怪異側に取り込まれていた・取り込まれつつあるという仕掛けは、その作品に触れた時点でアウトという逃げ場のなさがあっていい。自分は安全圏にいると思っていたらいつの間にか巻き込まれているというのがたまらない。

1/8

小学生くらいの頃地元の図書館で岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』を読んだのがホラー作品(特に小説)に触れた原体験だった気がする。岡山弁でとうとうと語られる悲しみや強い情念に衝撃を受け、それ以来しばらく岩井志麻子を立て続けに読んでいた。ホラー短編集『七つのカップ』(朝宮運河 編)にも岩井志麻子の作品が収録されていた。小野不由美や澤村伊智も参加していたのに惹かれて手に取ってみたのだが、やはり私は一人称で語られていていつのまにか語り手のバイアスが強くなっていくようなホラーが好きなんだなと再確認した。小林泰三の「お祖父ちゃんの絵」もそういうタイプの話ですごく怖かった。最高。