読書日記(6/29-7/27)

6/29

ダイアナ・ウィン・ジョーンズの遺作『賢女ひきいる魔法の旅は』をようやく読み切った。本作は途中からDWJの妹のアーシュラ・ジョーンズが引き継いで書いた作品らしい。DWJは2011年に亡くなったのだが、今後もう絶対に新しい作品が生まれないということはまだ新鮮にさみしい。本作は「イギリスに似た島々を巡って人を探す」という明確なゴールが物語の最初で提示されているため、DWJ特有のごちゃごちゃ感や「これどうなっちゃうの??」という展開の読めなさは控えめなように感じた。

 

7/6

岡嶋二人クラインの壺』。岡嶋二人の片割れであった井上夢人の作品はいくつか読んだことがあったのだが、岡嶋二人名義の作品は初めて読んだ。知らず知らずのうちに夢と現実が混同していく様子から、映画「インセプション」を思い出した。

 

7/10

表紙に惹かれて軽い気持ちで『くるまの娘』(宇佐美りん)を手に取ったところ、思いのほか刺された。

だが多かれ少なかれ人は、傷つけあう。誰のことも傷つけない人間などいないと、少なくともかんこは、思っている。では、自立した人間同士のかかわりあいとは何なのか?自分や相手の困らない範囲、自分や相手の傷つかない範囲で、人とかかわることか。かんこは、家族でない人に対しては、少なくともそういうかかわり方をしていた。その範囲を超えたらその人間関係はおしまい、潮時だった。だが家の人間に対しては違った。たったひとりで、逃げ出さなくてはいけないのか、とかんこは何度も思った。自分の健康のために。自分の命のために?このどうしようもない状況のまま家の者を置きざりにすることが、自分のこととまったく同列に、、、、、、、痛いのだということが、大人には伝わらないのだろうか。

(宇佐美りん『くるまの娘』, p.122-123)

「家族だから」、「恋人だから」OKということになっている暴力は多い。特に家族だと、「OKということになっている暴力」がその人のデフォルトとして人格に組み込まれやすいだろうから厄介だ。程度の差こそあれ家族のような関係性はすべて歪んでいるのかもしれないが、「OKとされているある種の暴力」が自分の人格の一部を形作っていると自覚することは苦しいというかやりきれない(もちろん、やりきれないからといってその暴力が免責されるわけではない)。

引用した箇所とも重なるが、自立した複数の個人が健全な線引きをしつつお互いを尊重することと、「家族」(少なくとも伝統的な「家族」とされがちな人々のユニット)って相性が悪くないか?私の家族観が狭量なだけの可能性もあるけど…。どうすればいいんでしょうね。

 

7/16

ずっと気になっていた『統合失調症の一族:遺伝か、環境か』(ロバート・コルカー)がセールになっていたので電子書籍で購入した。12人の子どものうち6人が統合失調症と診断されたギャルヴィン一家の歴史と、当時の統合失調症を取り巻く社会的・医学的状況が描かれている。

一家の末娘であるリンジー(メアリー)が中心人物の一人なのだが、このリンジーと母親であるミミとの関係が特に印象的だった。12人の子どもたちを育て上げ、精神疾患へのスティグマや子どもの精神疾患の原因を母親のせいにする精神医学の風潮があった中で、統合失調症と診断された子ども(全員が息子)たちの世話をしたことは本当にすごいことだ。しかし同時に、リンジーが兄たちとの関係に悩んだり兄から性的虐待を受けたことを話したりしても、ミミはリンジー自身の苦しみを受け入れるのではなく話をミミ自身の不幸な経験にすり替えて「だからあなたも強くなりなさい」というメッセージを発してしまう。屈折した見方かもしれないが、もしかするとミミにとって息子たちはケアの対象であった一方で、娘であるリンジーはケアすべき子どもというよりかつての自分を投影して無意識のうちに「苦しんでも当たり前の存在だ(なぜなら自分も不幸だったのだから)」と捉えていたのかもしれないと感じてしまった。読み終わったとき、『HER』(ヤマシタトモコ)の「娘に訪れるすべての幸福も災厄も母親に由来する」という一節を思い出した。

 

7/27

読みかけだった向田邦子の『霊長類ヒト科動物図鑑』を読み切る。身の回りのことや人間について書かれたエッセイで、所々に父とのエピソードが出てくる。図らずも、三冊連続で「娘についての話」という側面の強い本を読んでいた。なお、「娘」としての向田邦子について考えるなら『父の詫び状』は外せないと思うのだが、私はなぜかまだ読んだことがない。

台風が接近する中、家族それぞれが台風に備えたりなんとなく浮き足立ったりする様子を描いた「傷だらけの茄子」という作品が好きだった。張り切ったわりに台風がそれて翌朝何事もなかったかのように日常が戻ってきたときの拍子抜け感は、自分にも覚えがある。私は向田邦子のエッセイでは特に食に関する描写が好きなのだが、この作品でも、祖母が火を使わないで食べられる缶詰を古風な缶切りであけるところや残ったご飯を母と祖母がおにぎりにしているところなどが印象的だった。

 

リクエスト募集

最近読む本のジャンルや傾向が固定されつつあります。自分で選ばないような本も読みたいなーと思うので、もしよければおすすめの本を教えてください。時間はかかるかもしれませんが読んで読書日記に書きます。

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