読書日記(9/9-10/24)

9/9

『天冥の標 3 アウレーリア一統』(小川一水)。生業や気質・体質、性愛のあり方などの点で物語中のマイノリティである《酸素いらずアンチ・オックス》たちが剥き身で宇宙の海賊たちを狩っていくスペースオペラで、今までのところ、シリーズで一番わくわくしながら読んだ作品だ。

アダムスと、大主教であるデイム・グレーテルとの掛け合いがよかった。途中までデイム・グレーテルは高齢であるため判断能力のないお飾りの大主教であるかのように描かれていたが、アダムスとの戦闘の中でかつての俊敏さや優秀さを発揮する。第1巻(メニーメニーシープ)でも思ったのだが、天冥の標では一見無害でステレオタイプ的な描かれ方をしているキャラ(例えばユレイン3世の側女であるメーヌやカランドラ)も、物語が進むとその奥にある強さが見えてきておもしろい。

9/17

最近移動中に少しずつ読み進めていた『増補新訂版 アンネの日記』(アンネ・フランク)を読み終わった。自分のためだけに自分の生活や感情について整理して書く・書きながら整理するという行為は、癒しになり得る。時として、誰か気心の知れた人に話すより、自分一人でノートに書き連ねた方が楽になることがあると思う。さらに、書くことの機能はただ気持ちを整理して癒されるだけに止まらない。手を動かして書いているうち、それまで気づかなかったような感情に行きあたることがある。日記を書くことで、自分でも知らなかった自分の気持ちや希望に気づくことができるのではないだろうか。

9/21

この前、お手紙リレーという、住所や本名を明かさずに誰かとリレー形式で手紙をやり取りするという企画に参加した。私の書いた手紙が誰かに届き、その後また別の誰かから手紙が届く。友だちから教えてもらって今回初めて参加したのだが、メールとは違って手紙となると、どんな便箋を使おうか、どんなペンや万年筆で書こうか、など悩むことが増えて楽しい。 

『ツバキ文具店』(小川糸)(こちらも別の友だちから勧めてもらった)では、鎌倉で文具店かつ代書屋を営む主人公がさまざまな依頼者の手紙を代筆することになる。その際、相手との関係や伝えたい内容に応じて使う便箋や筆記具、筆跡までもが選び抜かれる。例えば、長年の友人との絶縁状には固い決意を示すために羊皮紙が使われるし、自分の文字の汚さに悩む人が送る誕生日カードにはその人の人柄を表すような筆跡が選ばれる。文章だけでなく、それを書く道具や文字そのもの、またそれらを選ぶ過程・手間も含めて相手への贈り物になるのだと思う。

9/22

『ポストコロナのSF』を読んだ。「黄金の書物」(小川哲)の語り口がよかった。

10/24

途中まで読んで放置していた『天冥の標 4 機械仕掛けの子息たち』(小川一水)をようやく読み切った。

ついこの前、シャーリイ・ジャクスンのトリビュート『穏やかな死者たち』が創元推理文庫から出版された。『不思議の国の少女たち』などの作者であるショーニン・マグワイアも参加しているらしいので楽しみ。

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読書日記(8/7-8/21)

8/7

人に小川洋子が好きだと話したら彩瀬まるの『くちなし』をすすめられた。たしかに、さまざまな体の部位への偏愛や、何かを喪失することのさみしさを淡々と描いている点は似ている気がする。一方で、『くちなし』では全体的に異性愛的な結びつきに焦点が当てられており、そのせいか小川洋子より湿度が高いように思える。

表題作の「くちなし」では、不倫相手の男と別れるときに片腕を貰い受けた女が、男の妻から腕を返すよう求められた際、男の腕の代わりに妻自身の腕を差し出すよう要求する。

まぶたを持ち上げてまず最初に、気持ちよさそうにシーツへ横たわる白い腕が目に入った。腕はいつだってかわいくて優しい。断片を愛する方が簡単だ。その人へ向かう感情も、濁ることなく澄んでいられる。妻みたいに丸ごとを愛して、丸ごとを欲しがり、丸ごとを管理しようとするのは大変だ。(彩瀬まる『くちなし』p.27)

8/9

『どれほど似ているか』(キム・ボヨン)では、韓国社会の不条理な構造や歪みとSFが接続されている。例えば「赤ずきんのお嬢さん」や「どれほど似ているか」では、フェミサイド(解説でも指摘されているように「赤ずきんのお嬢さん」は江南殺人事件がベースになっているのだろう)や、「もう女性差別なんてないんじゃない?むしろ男性差別があるよね?」という形で発露する性差別。例えば「0と1の間」では、高校生が直面する苛烈すぎる受験競争。

あとがきで作者が、「どれほど似ているか」で叙述トリックを使ったつもりはなかったものの読者に叙述トリックについて指摘されることが多かったと書いていたのが印象的だった。叙述トリックは最大公約数的な読者が持っているバイアスを利用して意図的にどんでん返しを演出するものだが、この場合、作者にその意図がなくてもトリックとして機能してしまうくらい読者(ひいては社会)にそのバイアスが浸透していたということだろう。再読してみると、たしかに所々で「それ」は提示されている。男性船員たちが船長に向ける敵意と敬意の欠如や、フン(人間に似た義体に入ったAI)がその場にいないかのように会話する様子は、「それ」とわかって読むとかなりあからさまかつ身に覚えがあってゾワっとする。

「私があんたに憧れてると思ってるんだろ。当然、人間になることを夢見てるって。あんたに愛されて、体を交えることを望んでいるって。でもあんたは私が知識を披露するだけでも暴力的になるし、単に自我があるかもと思うだけでも脅威を感じるよね。私のこと、劣った存在だと信じ込んでいるくせに、私があんたに優越感を持っていると思ってるだろ。暴力を振るうのは自分なのに、私があんたを攻撃して危害を加え、ついにはあんたに取って代わるという妄想に陥っているんだろ」(キム・ボヨン『どれほど似ているか』p.307-308)

最後の方でフンがある男性船員に放つセリフだ。「AI vs. 人間」の構図でもあり、その実、差別のある社会でマジョリティがマイノリティに対して感じている恐怖と嫌悪を言い当ててもいる。

8/11

ソウルフード」という言葉は、日本では郷土料理や特産品くらいの意味合いで使われがちだが、本来はアメリカ南部で差別を受けてきたアフリカ系アメリカ人の伝統料理を指す。上原善広の『被差別の食卓』では、差別にさらされてきた人々の間で生まれた世界各国の「ソウルフード」が紹介されている。

ソウルフードの本質は多くの人がおいしいと思うかという点にはなく、「その人が食べて育ってきた家庭料理」という精神にあるのだという筆者の指摘がおもしろかった。食というとまずは味で評価したくなるものだが、差別や経済的困難の中である種の抵抗として育まれてきた食文化には、画一的なおいしさという軸で語ることのできない部分が大きいのだ。

8/16

「天冥の標」シリーズ(小川一水)を読み始めた。前から気になっていた作品で、知人がおもしろいと言っていたのに後押しされて手に取った。第1巻『天冥の標 1 メニー・メニー・シープ』(上下)はカドムやアクリラといった魅力的なキャラクターの力もあってぐいぐい読ませるのだが、まだ舞台装置が示されたくらいで全体的に謎が多い。

ラストに今後の見取り図になりそうな文章があったので引用しておく。

かつて六つの勢力があった。

それらは「医師団リエゾン・ドクター」「宇宙軍カバラ」「恋人プロステイテユート」「亡霊ダダー」「石工メイスン」「議会スカウト」からなり、「救世群ラクテイス」に抗した。

救世群ラクテイス」は深く恨んで隠れた。

時は流れ、植民地が始まった——。

小川一水『天冥の標 メニー・メニー・シープ 下』p.357)

8/21

『天冥の標 2 救世群』を読む。第1巻から一転して現代日本が舞台になっており、初めて読んだときは面食らった。作中では、目の周りの黒斑や皮膚のただれ、高熱などを特徴とする感染源不明の病気が世界中に蔓延していく。COVID-19のパンデミックを経験する前に読んでいたらまた受け止め方が違っていたのかもしれない。

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読書日記(6/29-7/27)

6/29

ダイアナ・ウィン・ジョーンズの遺作『賢女ひきいる魔法の旅は』をようやく読み切った。本作は途中からDWJの妹のアーシュラ・ジョーンズが引き継いで書いた作品らしい。DWJは2011年に亡くなったのだが、今後もう絶対に新しい作品が生まれないということはまだ新鮮にさみしい。本作は「イギリスに似た島々を巡って人を探す」という明確なゴールが物語の最初で提示されているため、DWJ特有のごちゃごちゃ感や「これどうなっちゃうの??」という展開の読めなさは控えめなように感じた。

 

7/6

岡嶋二人クラインの壺』。岡嶋二人の片割れであった井上夢人の作品はいくつか読んだことがあったのだが、岡嶋二人名義の作品は初めて読んだ。知らず知らずのうちに夢と現実が混同していく様子から、映画「インセプション」を思い出した。

 

7/10

表紙に惹かれて軽い気持ちで『くるまの娘』(宇佐美りん)を手に取ったところ、思いのほか刺された。

だが多かれ少なかれ人は、傷つけあう。誰のことも傷つけない人間などいないと、少なくともかんこは、思っている。では、自立した人間同士のかかわりあいとは何なのか?自分や相手の困らない範囲、自分や相手の傷つかない範囲で、人とかかわることか。かんこは、家族でない人に対しては、少なくともそういうかかわり方をしていた。その範囲を超えたらその人間関係はおしまい、潮時だった。だが家の人間に対しては違った。たったひとりで、逃げ出さなくてはいけないのか、とかんこは何度も思った。自分の健康のために。自分の命のために?このどうしようもない状況のまま家の者を置きざりにすることが、自分のこととまったく同列に、、、、、、、痛いのだということが、大人には伝わらないのだろうか。

(宇佐美りん『くるまの娘』, p.122-123)

「家族だから」、「恋人だから」OKということになっている暴力は多い。特に家族だと、「OKということになっている暴力」がその人のデフォルトとして人格に組み込まれやすいだろうから厄介だ。程度の差こそあれ家族のような関係性はすべて歪んでいるのかもしれないが、「OKとされているある種の暴力」が自分の人格の一部を形作っていると自覚することは苦しいというかやりきれない(もちろん、やりきれないからといってその暴力が免責されるわけではない)。

引用した箇所とも重なるが、自立した複数の個人が健全な線引きをしつつお互いを尊重することと、「家族」(少なくとも伝統的な「家族」とされがちな人々のユニット)って相性が悪くないか?私の家族観が狭量なだけの可能性もあるけど…。どうすればいいんでしょうね。

 

7/16

ずっと気になっていた『統合失調症の一族:遺伝か、環境か』(ロバート・コルカー)がセールになっていたので電子書籍で購入した。12人の子どものうち6人が統合失調症と診断されたギャルヴィン一家の歴史と、当時の統合失調症を取り巻く社会的・医学的状況が描かれている。

一家の末娘であるリンジー(メアリー)が中心人物の一人なのだが、このリンジーと母親であるミミとの関係が特に印象的だった。12人の子どもたちを育て上げ、精神疾患へのスティグマや子どもの精神疾患の原因を母親のせいにする精神医学の風潮があった中で、統合失調症と診断された子ども(全員が息子)たちの世話をしたことは本当にすごいことだ。しかし同時に、リンジーが兄たちとの関係に悩んだり兄から性的虐待を受けたことを話したりしても、ミミはリンジー自身の苦しみを受け入れるのではなく話をミミ自身の不幸な経験にすり替えて「だからあなたも強くなりなさい」というメッセージを発してしまう。屈折した見方かもしれないが、もしかするとミミにとって息子たちはケアの対象であった一方で、娘であるリンジーはケアすべき子どもというよりかつての自分を投影して無意識のうちに「苦しんでも当たり前の存在だ(なぜなら自分も不幸だったのだから)」と捉えていたのかもしれないと感じてしまった。読み終わったとき、『HER』(ヤマシタトモコ)の「娘に訪れるすべての幸福も災厄も母親に由来する」という一節を思い出した。

 

7/27

読みかけだった向田邦子の『霊長類ヒト科動物図鑑』を読み切る。身の回りのことや人間について書かれたエッセイで、所々に父とのエピソードが出てくる。図らずも、三冊連続で「娘についての話」という側面の強い本を読んでいた。なお、「娘」としての向田邦子について考えるなら『父の詫び状』は外せないと思うのだが、私はなぜかまだ読んだことがない。

台風が接近する中、家族それぞれが台風に備えたりなんとなく浮き足立ったりする様子を描いた「傷だらけの茄子」という作品が好きだった。張り切ったわりに台風がそれて翌朝何事もなかったかのように日常が戻ってきたときの拍子抜け感は、自分にも覚えがある。私は向田邦子のエッセイでは特に食に関する描写が好きなのだが、この作品でも、祖母が火を使わないで食べられる缶詰を古風な缶切りであけるところや残ったご飯を母と祖母がおにぎりにしているところなどが印象的だった。

 

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読書日記(6/4-6/21)

6/4

澤村伊智の『邪教の子』を読む。「カルト信者の母親から虐待を受けている子どもを助ける」という、わかりやすい上に刺激的で美しい「物語」。少なくとも初めの段階ではその「物語」をほぼ疑わず、むしろ喜んで飲み込んでしまうような読者の露悪的な部分をまざまざと暴いているように感じた。

 

6/9

『不思議の国の少女たち』の続編、『トランクの中に行った双子』(ショーニン・マグワイア)。時系列としては前作より前であり、前作にも登場していたジャックとジルという双子の姉妹が、赤い月と荒野の異世界で冒険をすることになる。本シリーズの「異世界」は、現実世界で抑圧されていた子どもたちが本当の自分を解放できる場所という側面を持っている。今回のジャックとジルは、自分たちの意思を無視された上で両親からそれぞれ「かわいい方」「おてんばな方」という役割を押し付けられていた。役割に倦んだ二人はトランクを通じて、吸血鬼が支配する封建的な領土に行き着く。ジャックは人間の博士の元で、ジルは吸血鬼のご主人の元でそれぞれ初めて自分の欲望や本当に望むものを身につけていくことになる。こういう物語を読む層はどうしてもジャック(親から「かわいくておとなしい方」という役割を担わされていたが、異世界では博士の元で科学の知識を身につけて自立していく)に感情移入して肩入れしがちで、どちらかというとジルを疎ましく思う気がする。この世界の女の子や若い女性に向けられる規範と「かわいい方」役割の相性はよく、規範に合う好みを持っている場合摩擦が起きにくい。「かわいい方」という役割を心地よく思っている人(特に女の子)は物語に没入することで摩擦を解消したり逃げたりする必要がないのだ。しかし、「かわいい方」に適応するしないが問題なのではなく、そもそも女の子を「かわいい方」と「おてんばな方」に分断することが問題である。この物語でいうと両親という分断を引き起こした者を透明化してジャックとジルの憎愛とその結末を語ることはできない、というか不公正に思える。

 

6/16

読書会のために『精霊の守り人』(上橋菜穂子)を再読した。守り人シリーズは何回か読み直しているはずなのに、なぜか毎回「こういう話だったんだ」と新鮮に読むことになる。小さな頃はチャグムやバルサが「善い方」、帝や星読博士、〈狩人〉が「悪い方」という単純な二項対立に落とし込んで読んでいた気がするのだが、今読むと〈狩人〉ですらさまざまな事情やしがらみの中で動いていて、その人間くささがおもしろかった。あと、やっぱりご飯の描写がとてもおいしそう。作中に登場するご飯のレシピは『バルサの食卓』という本にまとめられているらしいのでいつか作ってみたい。

 

6/20

アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』。個人的に有名すぎて逆に食指が動いていなかったシリーズの中の一冊だったのだが、今回やっと読んだ。10人それぞれのキャラクターや殺人が起こるごとに微妙に変化していく信頼関係がおもしろかった。犯人としては罪の軽い順に殺していったらしいが、そうするとあの人がラストなのは変じゃない?罪の軽重を比べるべきではないかもしれないが、ラストに死んだ人の属性によって罪の残酷さが大幅に重く見積もられた気もする。

 

6/21

途中まで読んで置いていた本をいくつか読み切った。

恩田陸の『Q&A』。最後まで明白な答えを提示せず、それぞれのキャラの解釈ややり取りによって不穏さがどんどん膨らんでいく感じがとても恩田陸っぽい。誰かが書いていたのだが、作家には「幸福な上澄み」というべき作品がある。その人が詳細にどのような文脈で言っていたのかは忘れてしまったのだが、私は「幸福な上澄み」を、その作家の「幸福な」エッセンスが凝縮されて万人に響くところのある物語になった作品だと捉えている。例えば恩田陸でいうと『夜のピクニック』、小川洋子でいうと『博士の愛した数式』だ。『Q&A』はまったくそのような作品ではないが、すごくおもしろい。私はむしろこういう話の方が好きだ。

角田光代の『愛がなんだ』。恋愛ものとして読むと主人公の挙動や独白にうんざりしてくる。しかし、実際には恋愛というよりどこからくるのかわからないほどの強い執着について書いていることがわかってくる。執着ものとして読むとむしろ好きな作品である。原作より先に映画を見たことがあるのだが、映画のラストのセリフは特に言いようのない執着を表していてよかった。

マモちゃんの恋人ならばよかった、母親ならばよかった、きょうだいならばよかった。もしくは、三角関係ならばよかった、いつか終わる片恋ならばよかった、いっそストーカーと分類されればよかった。幾度も私はそう思ったけれど、私はそのどれでもなくどれにもなり得ず、そうして、私とマモちゃんの関係は言葉にならない。私はただ、マモちゃんの平穏を祈りながら、しかしずっとそばにはりついていたいのだ。(中略)私を捉えて離さないものは、たぶん恋ではない。きっと愛でもないのだろう。私の抱えている執着の正体が、いったいなんなのかわからない。けれどそんなことは、もうとっくにどうでもよくなっている。(角川文庫『愛がなんだ』, p.211)

村田沙耶香の『丸の内魔法少女ラクリーナ』。村田沙耶香の作品は、透明化されていることにも気づかないくらい限りなく透明化されている社会規範を「この世界って、今はこういうことになっていますよね」としつこいくらい丁寧に抉り出してくる。世界は「こういうこと」になっていて、「こういうことになっている」という幻想をみんなで共有することによって成り立っている。「成り立っている」ということになっている。

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読書日記(5/9-5/23)

5/9

今回の『NOVA 2023年夏号』は全作品が女性作家による書き下ろしらしい。特に「プレーリードッグタウンの奇跡」がよかった。作中では、短い音にいくつもの意味を載せられるプレーリードッグの警告音によって思考が速くなることが示唆されている。こういう、「言語などの様式が思考や意思を規定する」というコンセプトがとても好きだ(というかしっくりくる)。テッド・チャンの『あなたの人生の物語』を思い出した。

 

5/12

ゴールデンウィークに、無料公開されていた『大丈夫倶楽部』(井上まい)を読んだ。主人公である花田もねは「大丈夫になる」ことを大切にしている人で、セルフケアや他の人との関わりを通し、「大丈夫」を阻んでくる日々の中でも「大丈夫になる」ことを諦めない。

『大丈夫倶楽部』自体はおもしろかったが、常々「セルフケア」や「自分で自分の機嫌を取る」という言葉には欺瞞を感じている。実際には社会の構造や人との関わりの中で大丈夫になることが難しくなる側面があるのに、セルフケアと言われると、大丈夫でなさが社会の問題ではなく個人の問題としてのみ映ってしまう。もちろん個人として自分をいたわったりできる範囲で環境をよくしたりすることはできるだろう。しかし、「セルフケア」という言葉は、使い方次第では「あなたが大丈夫ではないのはあなたの努力が足りないからだ」という自己責任的なメッセージすら発し得るのではないか。

現代思想2023年5月号 特集=フェムテックを考える』を拾い読みしていたのだが、サラ・アーメッドの「戦いとしてのセルフケア」(浅沼優子訳)が印象的だった。冒頭でオードリー・ロードの「自分を大切にすることは自己を甘やかすことではなく、自己保存、および政治的戦いである」という言葉が引用されている。アーメッドは、社会で生存することが想定されていない人々(特定の身体、特定の集団の一員など)にとって、生存すること=「最後まで存在しないことを拒否すること」(p. 77)自体がラディカルな戦いであると言う。この社会でケアされるべきとされる人々に対してではなく自分へケアを向けること。そうやってセルフケアを通じて生き延びることが、社会的なたたかいになり得るみたいだ。

 

5/22

マシュマロで薦めてもらったSF短編集『いずれすべては海の中に』(サラ・ピンスカー)を読む。はじめて手に取った作家だけどとてもおもしろかった。

特に「いずれすべては海の中に」、「風はさまよう」、「オープン・ロードの聖母様」の3編が好きだった。音楽や物語といった文化は人から人へ、前の世代から次の世代へ伝わっていくうちにどうしようもなく変容してしまう。変わるどころか人間ごと海に沈んでしまったり、それを愛好する人がどんどん減ってしまったりすることだってある。変わることでこぼれ落ちるものや、受け継いでくれる人がいなくなりつつあることを目の前にしつつ、それでもその変化をおもしろがったり今文化を共有してくれる人に希望を託すことだってできるのだ。

母と娘、漂流者とそれを助けた人、決別したビジネスパートナー同士、時間や時代を飛び飛びに生きる恋人たち、ギグワーカーとその依頼主など、女同士のバリエーション豊かな関係性が当然のように描かれているのも魅力的だなと思った。

あと、ラストの「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」は設定が少し「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」に通じるところがあっておもしろかった。私もあらゆる分岐の自分を集めてパネルディスカッションをしてみたいけど性格的に数日で疑心暗鬼と嫉妬、実存的不安から殺し合いを始めそうな気がする。多分そういう性格ではない私もいるだろうけど少ないだろうな。

 

5/23

『不思議の国の少女たち』(ショーニン・マグワイア)は、あらすじに惹かれて買ったもののあらすじのせいでしばらく積んでいた本だ。「異世界に行った経験があり、『向こう』に戻りたいと切望する子どもたちが、現実と折り合いをつける方法を教える学校に行く」って、おもしろそうだけどつらくもある。戻りたいじゃん…!現実と折り合いをつけるんじゃなくて戻る方法を教えてくれ〜と思いながら読んだところ、いい意味で思っていた話と違った。特に、それぞれの子どもたちが行った「異世界」での経験と「本当の自分≒クィアネス」が重ねられていた点が興味深く、ラストの展開も胸に迫るものがあった。例えば、作中でアセクシュアルであることが示されているナンシーは死者の殿堂に行った経験を持つ。性欲があることが自明視されがちなこの世界に窮屈さを感じていたナンシーは、静謐で優雅な死者の殿堂に迎え入れられることでやっと本当の自分になれたという開放感を覚える。「向こう」に戻りたいと思うのは当然だ。この世界の論理が通じなくても、命の危険が付き纏うような世界であっても、そこで本当の自分になれるのならすべてを投げ打ってでも戻りたいと私も思うかもしれない。

 

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今回扱った『いずれすべては海の中に』(サラ・ピンスカー)はこのマシュマロから薦めていただきました。ありがとうございました!

読書日記(4/2-4/20)

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4/2

ホラー好きの怖がりなので、ホラー小説や漫画を読むたび夜にトイレや風呂に入るのが怖くなって後悔することになる。澤村伊智の比嘉姉妹シリーズ最新作『さえづちの眼』も、読んでからしばらく一人でいることが心許なくなった。「あの日の光は今も」「母と」「さえづちの眼」という3つの中編が収録されているのだが、どれも家族(家父長制)や母であることの「怖さ」と怪異やUFOなどの「怖さ」が渾然一体となっていておもしろかった。人々が何を怖いと思うか、何が怪異とされるかはかなり社会的な文脈に影響されると思うのだけど(有名な女の幽霊はわりといるけど、有名な男の幽霊はあまりいない気がする?)、澤村伊智はそれをかなり意識的に扱っている気がして興味深い。

4/9

蜂の巣箱の蓋だったタイルや花嫁を乗せるラクダに飾るはずだった鮮やかな紐など、生活に根ざした物語を持つ民芸品が登場する『アリババの猫がきいている』。民芸品は佇まいや色形からして魅力的な一方、もともとどこでどのように作られて使われていたのかを知ろうともしない姿勢は、民芸品を生み出した文化や生活を簒奪することにもなりかねないなと思った。

数々の民芸品の中でも特にアフガニスタンのヘラートで作られている吹きガラスが印象的だった。ヘラートグラスの色は無色〜濃紺が多く、気泡が入っていて少しいびつな形はひとつひとつ違っており、見ていて飽きない。直に触ったことはないものの、いびつな線はよく手になじみそうだ。ヘラートグラスは作り手や需要の問題で作るのが難しくなっているそうだが、いつか目の前で見て触ってみたい。

4/16

絶対にこれを必要とする人がいるな、とわかる物語がある。『かがみの孤城』はまさにそんな本だった。避難所としての孤城と、帰っていかなければならないきつい現実。(つらさは比較するものでもないが)特にあるキャラクターの現実には、「前向きな気持ち」などで乗り越えられるようなものではない過酷さがある。物語ができることと、その限界が明示的に描かれていた。

4/17

最近西洋占星術に興味がある。心から占いが事実と整合的であると思っているわけではないのだが、どこかで心持ちや行動の指針にしている節がある。占いのようなスピリチュアリティは、科学的な根拠はないものの人を信じさせる(こともある)パワーを持っている。『ポップ・スピリチュアリティ メディア化された宗教性』は、主に江原啓之の事例を中心にメディアにおけるスピリチュアリティのあり方とその受容のされ方について書かれていておもしろく読んだ。スピリチュアリティだと、この前読んだ『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』もおもしろかった。

4/20

「子はかすがい」、「結婚前に遊んでいた人ほど結婚したら落ち着く」など、不倫に関する俗説は多い。例えば「子はかすがい」は、たしかに子どもがいれば簡単に家族を崩壊させるような行為はできないだろうという気もするのでなんとなくあっている気もする。実際はどうなんだ?というところを扱っているのが『不倫ー実証分析が示す全貌』だ。不倫というトピック自体キャッチーだし帯もそのキャッチーさを存分にアピールしているのだが、決して軽薄な内容ではなくアンケートを元に不倫の実態を分析している(ちなみに「子はかすがい」を裏付けるような結果はなかったらしい)。補論で因果推論や仮説検定などについて触れているし引用文献も細かく紹介されているので、他の社会現象を分析する際の参考にもなりそう。

読書日記(3/18-4/1)

3/18

シャーリイ・ジャクスンの作品にはなんとなく幻想的で陰鬱な作風のイメージを持っていた(始めた読んだのが『ずっとお城で暮らしてる』だったからだと思う)ので、『なんでもない一日』を読んでその幅広さに驚いた。「レディとの旅」や「喫煙室」みたいに明るいところのある作品もおもしろかったけど、やっぱり「ネズミ」「悪の可能性」「アンダースン夫人」のように人の悪意や底知れなさの垣間見える作品が好きだ。知っていると思っていた人が急に得体の知れない人になってしまう瞬間にぞくっとする。

 

3/20

安楽椅子探偵の代表格であるミス・マープルは、長編としては『牧師館の殺人』(アガサ・クリスティー)に初めて登場したらしい。語り手であるクレメント牧師を除き、ほぼすべての登場人物がミス・マープルを「ゴシップ好きのおばあさん」と舐めてかかっており、ミス・マープルの観察眼や推理力は最後まで軽んじられている(犯人解明もスラック警部の手柄になっているし)。でも、安楽椅子探偵としてはその方がいろいろと都合がいいんだろうな。「ただのおばあさん」と思わせておいた方が動きやすいだろうし。セント・メアリ・ミード村の事件を解決していくうちにミス・マープルがただものではないことが広まってしまうような気もするのだけど、その辺りはどのように処理されているのか気になる。

 

3/24

シャーリイ・ジャクスン『丘の屋敷』はとても怖い作品だ。しかし、読んでいて清々しくなる部分もある。仲の悪い姉一家との関係や母の介護をしていたために他の人間関係を築くことができなかったことなど、外の世界に居心地の悪さを感じていたエレーナは、屋敷に魅入られてやっと安住の地を見出したのだ。それは、くりかえされる「旅は愛するものとの出逢いで終わる」というフレーズからもうかがえる。ラストにおけるエレーナの行動は側から見ると悲劇だが、エレーナ本人にとっては「屋敷に居続ける」という願いを叶えるため、自分を軽んじてきた人々や世界に一矢報いるために取ったものなのだと思う。

 

3/27

小川洋子の短編集『まぶた』。ところどころ他の小川作品と呼応する部分があり、なんだか懐かしさを感じた。例えば「バックストローク」に登場する「弟」は、泳いでいないときたいてい部屋の隅や納戸の中などのすき間におさまっている。これは『猫を抱いて象と泳ぐ』のリトル・アリョーヒンの姿と重なる。

すき間におさまること、他の人には理解しがたいものを収集して精密にラベリングすること、眠りをもたらすものに目を凝らすこと、もう居ない人の濃厚な気配を感じ取ること。小川作品らしい、様々な営みへの偏愛が感じられて(既視感はあるものの)おもしろかった。

 

4/1

『大きな鳥にさらわれないよう』がおもしろかったので同じ作者のもので長編を探してみたところ、『水声』にたどり着いた。時系列も夢現もあいまいで、後ろ暗い執着や愛情が淡々と描かれている。作中、度々「笑っているようで実は笑っていない顔」の描写が出てくる。語り手である主人公の、母や弟に対して持つ感情に由来する後ろめたさが、他者の顔に対する認識を歪ませていたのかもしれないと思った。